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おぼえていますか。昔の晴れた春の初め、電車の窓から笑う光たちの群れがあまりにもおれんじで美しかったこと。おぼえていますか。
あの大嫌いなベランダを登り息を吐きながら星を探して泣いたこと。おぼえていますか。
わたしはあなたの記憶です
おぼえていますか?こんなふうに世界があたたかかった日のことを、それからうねうねの針金のことを。あの人が投げたそれを大切に拾って宝にしたことを。
電車に乗っていた変な人のことを。
お釣りを渡した時の彼の体温のことを。
にんげんがちっぽけであることを外から見て知ったことを。少しもわすれないでいようと、あのとき健気に言葉にしたことを。その紙の切れ端がどこに仕舞ってあるのかを、おぼえていますか。太陽が、太陽が光っていることを。
心が切なくて縮む音を、おぼえていますか。
涙がそこから溢れる時に見える色を、思い出せますか。あの子の前髪がすこしゆがんでいたこと、優しい人間が友達になった日のこと、わかっている、この人はわたしの生涯の友人になるのであろうという、確かな感覚や手触りのこと。髪の痛み、薄いまぶたに白い眼球、そばかすのある日焼けのない肌、少し下がった広角のことなどを。
おぼえていますか。
わたしは懸命にわすれないでいようとしています。全てを閉じ込めておきたいとすら、思います。それでも記憶が家の屋根や車窓にとけてゆくさまを、わたしはなんだか空気の抜けるときのような心持ちでみているのです。
きかないでいようとして失敗してしまったことばたち、知らないでいようとして失敗してしまったほんとうのことたち。
わたしはあなたを知っています
あなたの本当を憶えています