FUMI

日記/葉書 など

犬 帰路 犬 かなしみのその色!

犬を連れて歩くひと、家まではすぐ近く

わたしの家まであと5分もかからないその公園

押せば凹む粘土とは違うとわかっているのに、わたしは彼の肌を濡れた指で何度も撫でた

焼き上がった陶器の様なかれのくちびるがすぐそばにあったことを思いだして、わたしはひとり苦しくなる

そのくるしみは、退屈な痛みとは違う

 


白い犬を3匹連れて歩くひと

夕方はもうすぐ闇になり、薄く靄のかかるみどり色の家路は、今まで見た幾人もの涙を流す女を思い出させた

切ない女のかなしみは、すべてこのようなごく稀に出現するさいはてのかなしい国に、ひとつ残らず集められているように思う

悲しい話をするたびに、誰かの髪が羽毛のようにやわらかに揺れ、わたしが泣くたび、突然の雨が降って塩辛いのは海への郷愁になった

 


白い犬を3匹連れたままポールの間を通るひと

犬たちを繋いだリードを操り人形のそれのように持ち、濁りなく笑いながら道を急ぐ

それは五月のスコールにフードを被った何年も前の彼のように、悲しくて綺麗。悲しくて綺麗。

わたしにはこの悲しみの国に、彼らがいとしい

わたしの家までこの道はあと2分もかからない

犬たちがわたしの前から先に先にと遠ざかる

ウー

わたしは白いお姉さんを何人か知っていた。

おねえさん、と呼びたくなるような女のひとたち。

年はみんな高校生くらいだった。

彼女たちのくちびるはいつも赤に近い腫れたぴんく色で、彼女たちの腹はいつもすらっとして細く、白く、彼女たちの二の腕はいつも少したるんで遠くから小さく見えるほどの黒子があった。

彼女たちは漏れなく視力が低く、昼はコンタクトを、夜は趣味の悪い眼鏡をしていた。

彼女たちの薄いお化粧は夕方になるとよく乱れて、瞼の色がぱきとなったり、ファンデーションに皮脂が浮かんできていたり、まつげにつけた黒いものが剥がれて頬に落ちてきたり、していた。

そのすべてが綺麗だったから、わたしはそのことを口にしなかった。

彼女たちにはいつも山積みの宿題があって、それをテレビを関心なさそうに眺めながら片付けていた。そばにはマグカップに入った冷たい緑茶があった。

彼女たちは私に優しく、いつでも手を繋いで遊んでくれた。かくれんぼや、お絵描きや、彼女たちが小さい頃に汚したおもちゃで、宿題が終わると暗くなるまで遊んでくれた。

彼女たちの身体は成熟しかけていて、わたしはその身体を狭いお風呂でまじまじと眺めて自分のそれと比べた。

彼女たちには同じ学校の同じ部活に恋人がいて、彼のことをわたしには話したがらなかった。

彼女たちはいくつか秘密を持っていて、それらは彼女の家の安いシャンプーのように彼女たちがゆらりと動くたびに香り立った。

彼女たちの胸は小さく、頭も小さく、足は細く、体毛は薄くて、服はそんなにもおしゃれではなかった。髪は脱色したことのない暗闇のような黒で、ときどき白い髪が混じっていた。

彼女たちはもうどこでも見かけなくなった。東京の大きなクラブや喫茶店や人混みの中にいたおねえさんはみんな彼女たちよりずっと綺麗で、お化粧が乱れたりも白髪があったりもしなかったけれど、彼女たちのようにわたしを惑わせる何かは持っていなかった。

彼女たちの家に彼女たちはもういなくて、彼女たちの白い肌はもう彼女たちのものではないのかもしれない。

彼女たちはやさしかった。彼女たちは本当に綺麗だった。

 

住んでいた家の話

みんな知らないと思うけど、わたしは和歌山の出身で、幼稚園年長のときに引っ越した古くてかわいいおうちに、猫と、でかい金魚と、両親と姉と、長いこと暮らしていた。

知り合いの設計士の方と大工さんが丁寧に張り替えた床はつやつやしていて、若くて綺麗だった。

天井の高い平家だったが、小さな屋根裏の部屋があって、私は入ったことがなかったけれど、白い蛇が出たことがあると大工さんたちの間で噂になっていた。

私はそういうお家に住んでいた。

冬は寒くて夏は暑くて、台風が来たら窓を塞がなくてはいけないようなおうち。

大家さんは向かいの大きな家に住んでいる農家の夫婦だった。わたしたちは、彼らを親しみを込めておっちゃん、おばちゃん、と呼んだ。ふたりはいつもコメディタッチな喧嘩をし、そのたびにエネルギーを奮って私たちにその様子について伝えた。

おっちゃんは歯が抜けていてどこかぼんやりとした人で、でもおばちゃんと言い合っている時は生き生きしていた。2人が本当には憎しみ合っていないことをわたしたちはなんとなく知っていた。

おばちゃんは出会った時からずっと、長いグレーの三つ編みをふたつさげていた。おばちゃんのどこか強い猿っぽい顔にそれが似合っていたかと聞かれればちょっとわからないけれど、その風貌は絵本に出てくるお婆さんのようで私は好きだった。

そのおばちゃんが突然、不揃いなボブヘアになってわたしたちに野菜を持ってきた。へへっと笑い、独特のしわがれたこえで「昨日喧嘩してねえ、もうええ!ゆうて三つ編みのまんま切ったんよ」と言った。

私たち家族は衝撃を受け、この話はずっと語り継がれた。それにしても、ハウルかよと今になって思うのだけど、しかし彼女がハウルの動く城を見たことがあるかは怪しかった。

おばちゃんの手の爪には黒い土がたくさん詰まっていて、人間の手ではないように大きくてゴツゴツして赤かった。おばちゃんの作る野菜はおいしかった。時々招かれて遊びに行ったおばちゃんの家は猫屋敷化していて、そこらじゅうに猫がいた。玄関はなんだか独特な匂いがした。いつもくれる梅のジュースはあまり美味しくなかった。

ある日、わたしや姉がまだ小学生の頃に、おっちゃんが死んでしまった。おっちゃんはタバコを吸いすぎていたし、病気のあることも知っていた。私は泣いたりもしなかったと思う。まだ、人が死ぬということを分かりきっていなかった。だから、おらん!なんで?!と驚くことの方が、悲しみの数より多かった。

おばちゃんが泣いているのも、見たことがなかった。ただなんだかおばちゃんはおっちゃんが死んでからなんだかしょんぼりとしていた。覇気がなくなったというか、そういう感じだった。喧嘩する相手がおらんようになったわ、と言っていたことを母から聞いた。

いつだったか、おばちゃんやその娘のユカちゃん、その息子のレイくんたちをうちに招いて、鍋をしたことがあった。わたしは来客は苦手だったが彼女たちには慣れ親しんでいたし、レイくんは当時わたしたち小学生の憧れの的のミスドでバイトしていた。しかも彼は東京に暮らしていて、確かにすらっとして綺麗な顔立ちだったように思う。レイくんはわたしたちと飽きずにずっと遊んでくれた。

おばちゃんも楽しそうだった。私は嬉しかった。

私は彼らが恥ずかしがらず臆せずにゲラゲラと笑う様が好きだと思っていた。

おばちゃんが階段かどこかで転んで足を怪我してしまい、ユカちゃんたちの家で暮らすことになってから、おばちゃんの姿を見ることはめっきり少なくなった。

そのうちにわたしも家を出て寮で暮らすことになり、次の年には姉も東京の大学に出てきて2人で暮らすことになった。

おばちゃんとはだから、しばらくもう会っていなくて、噂でだけ、乱暴すぎるうちの猫に怒っているとか、そんなことをときたま聞いた。

今朝電話が鳴って、母親の声がして、私は寝ぼけていたからウダウダと駄々をこね、学校に行きたくないだの、寒いだのと20分ほども繰り返していた。

「あ、そう。ふみちゃんあのね、おばちゃん亡くなりはってん」

私は上体をすこし起こして、えっ、と言った。びっくりして目が覚めた。

「患ってるの、黙ってるわけじゃないけど別にまだ言わんでもええかと思ってたんよ。おばちゃんもっと元気でいててくれると思ってたんよ」

お母さんはわざと淡白な声を出しているようだった。

「昨日お通夜やってんけど、泣いてしまうから行きたくなかってんけど、やっぱりめちゃくちゃ泣いてしまった」

お母さんは続ける。

「黙ってなくてもええかと思って」

わたしは、なんだか色んなことを思い出していた。ぶつ切りされた三つ編みのことや、おばちゃんの家のことや、猫や、レイくんのことなど思い出した。

レイくんは和歌山に帰ってきて、おばちゃんの家を改装して料理のお店を開くそうだ。

お腹が空いたら行ったらいいね、と母は言った。私もそうしたいと思った。

学校に遅れるので急いでご飯を食べ、急いで準備をして電車に乗ってから、思い切り泣いてしまった。せっかく大好きな人に会うから施した化粧の目も崩れてしまった。

今日はとても晴れています。寒くて暖かいです。

私は好きな人に、4日ぶりに会いに行きます。

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おぼえていますか。昔の晴れた春の初め、電車の窓から笑う光たちの群れがあまりにもおれんじで美しかったこと。おぼえていますか。

あの大嫌いなベランダを登り息を吐きながら星を探して泣いたこと。おぼえていますか。

わたしはあなたの記憶です

おぼえていますか?こんなふうに世界があたたかかった日のことを、それからうねうねの針金のことを。あの人が投げたそれを大切に拾って宝にしたことを。

電車に乗っていた変な人のことを。

お釣りを渡した時の彼の体温のことを。

にんげんがちっぽけであることを外から見て知ったことを。少しもわすれないでいようと、あのとき健気に言葉にしたことを。その紙の切れ端がどこに仕舞ってあるのかを、おぼえていますか。太陽が、太陽が光っていることを。

心が切なくて縮む音を、おぼえていますか。

涙がそこから溢れる時に見える色を、思い出せますか。あの子の前髪がすこしゆがんでいたこと、優しい人間が友達になった日のこと、わかっている、この人はわたしの生涯の友人になるのであろうという、確かな感覚や手触りのこと。髪の痛み、薄いまぶたに白い眼球、そばかすのある日焼けのない肌、少し下がった広角のことなどを。

おぼえていますか。

わたしは懸命にわすれないでいようとしています。全てを閉じ込めておきたいとすら、思います。それでも記憶が家の屋根や車窓にとけてゆくさまを、わたしはなんだか空気の抜けるときのような心持ちでみているのです。

きかないでいようとして失敗してしまったことばたち、知らないでいようとして失敗してしまったほんとうのことたち。

わたしはあなたを知っています

あなたの本当を憶えています

剥はく

私を温める毛糸は雷光のように強く痛く光り、肌の匂いをこもらせて眠りについた。今日が終わって不幸だけが残っても、肩の体温はその背丈と伴ってあゆむ 海の太陽は赤くて、黄色くて白くていい匂いがした。もし太陽が萎んで両手に包めるようになって、わたしの手の中に落ちてきても、きっと本当に好きだと思う人には渡さないでしょう、私は渡さないでしょう。それどころか濁った池の中に投げて棄てるかもしれない 右手に綿の布でくるんだそれを、シュウと音をたてて死ぬまで見ているのかもしれない それは哀れに池の中に沈んで、息を吐きながらなお光って魚や鴨を火傷させるのかもしれない

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数字で咥えた涙など 塩辛くてぬるいそれは海に似ていました 綺麗で、納得がいかなかった

その瞬間終わってしまったものを目で追っていても、わたしは臆病な猫背にもならずに強く息をできました。本当は殺していたのかもしれません。本当は子猫のように美しくて綺麗な生命を殺したかったのかもしれません。そうでもしないと、納得なんてできなかったのかもしれない。人間というのは凶暴で、いや、優しさこそ凶暴なものであることを、わかってほしかった。眠る前に何度も涙して空想した、煙に消えたわたしの思惑たちが、いつかどこかで叶えられて痛いほど幸福に笑うさま。

その国の窓の格子戸でどうしても泣いてしまうわたしの涙は偽物の甘さで、わたしは海を知っていたことを思い出します。

愛や恋を言葉以外の人間で知っていたことを思い出します。

いつもそうやって、手紙を書いていた孤独なベランダを忘れてはいなかったことを。

汚れた足の裏のことを。

その瞬間にわたしは目を覚まし、現実を憎み、泣きながら全てを抱きしめるのです。口を少し開けると、世界がわたしのうちにこっそりと入ってきている。

わたしは秘密の王国を知っていて、それがたしかな嘘であることを知っています。

だからこうして、毎夜眠ることができるのかもしれません。だからこうして、子猫を撫ぜることができるのかもしれません。

(12:24)

わたしはつむぐ手を見ていた 蛍光灯の悪魔的な光り方や、彼女のしずかできれいな白眼にみとれていた。机に伝わる振動、意識を軽く浮遊させて色彩を認識した時、わたしはそのあざやかさに、そのここちよさに、感動に涙すらした。

 

万緑の中に吾子の歯生え初むる

 

結局のところ諦め切れないのだとわたしは声に出して言った。感覚のない髪をゆっくりと撫でて、苛立たない腦とその細く曲がった猫背に目をやる。どれもこれもすべてなのだろう どれもこれもほんとうなのだろう

冬を過ぎてすっかり痩せてしまった背骨の凹凸を反らす音を聞く。目の奥でしっかりと捕まえたその長い髪の影に、わたしはいとも簡単に納得することができる。

 

もしもし、と奥から出すための小さい声で静かに話しかける。もしもし、きこえますか。もしもし、もしもし。

 

この頃の緑のあたらしさには、人間が狂うようなその鼓動のときめきがある。さわやかな光の中に当たり前に毒が差し出されていて、それにわたしはどきどきしてしまう。明るい日光にクラクラと痛む瞳孔を瞼に包み、あの日見た絶対に信じている景色の色たちを再生している。